第1篇:2017日语高考作文范文:細やかな幸せにも感謝の気持ち
在现代社会中,人们总是在追求者自己的幸福。有了幸福感,生活才能丰富多彩。但是,我们在追求幸福的时候往往忽视了那些细小的感受。请你以「細やかな(细小)幸せにも感謝の気持ち」为题,写一篇短文。
写作要点:
1.举出几件你感到幸福的小事。
2.谈谈你的感受。
3.阐述你的。
写作要求:
1.字数为300~350字。
2.格式正确,书写清楚。
3.使用「です・ます」
历年作文真题范文:
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范文一
細やかな幸せにも感謝の気持ち
わたしたちの身のまわりには細やかな幸せがいくらでもあります。それに気づかない人が多いのが事実です。
おなかが空いたら,母が作ってくれた料理を食べて,「うまい」と感じますし,暑い時涼しい風が吹いて来たら,ありがたく思います。ちょっとした進歩にも満足感を覚えます。勉強がうまくいかない時,友達からの励ましは力になるでしょう。
「それは普通過ぎるじゃないか」と考える人がいるかもしれませんが,わずかな幸せでもたくさんあれば,大幸福になります。ですから,一つ一つの小さな幸せを大切にしなければなりません。そして,幸せを与えてくれた親や先生,友達にも感謝の気持ちを忘れてはいけません。いくら小さな幸せであっても,必ず見つけ,味わって,毎日楽しく過ごそうではありませんか。
知识点
【词汇】
気づく【自动·一类】
注意到,察觉,意识到,认识到
例:自分の誤りに気づく/认识到自己的错误
励まし【はげまし】 鼓励,激励.
例:先生の~によって奮い立つ/受到老师的鼓励而振奋起来.
わずか...【僅か...】仅仅...
例:わずかな資金(しきん)で映画を作った。用极少的成本制作电影。
【语法】
しなければなりません:
动词未然形+なければなりません
含义:表示必须… ,非…不可。表示义务、必要性。(自我约束)用法:有如下接续方式:
A动词未然形+なければなりません
B体言・形容动词语干+でなければなりません.
C形容词连用形+なければなりません
てはいけません
动词连用形+てはいけません
含义“不要,不准,不可”等意思。
例:食事をするとき、话してはいけません。 吃饭的时候不要说话
【短语】
身のまわり【みのまわり】
(1)〔身につけるもの・手回りの品〕身边衣物
例:身の回りを整える/收拾好身边衣物.
(2)〔日常の雑事〕日常生活
例:身の回りの世話をする/照料日常生活.
おなかが空く 肚子空,肚子饿
ちょっとした 稍微,相当,尚可
例:ちょっとした事にすぐ腹をたてる 一点小事马上就生气。
范文二
細やかな幸せにも感謝の気持ち
近年急速な科学技術の発展に伴い、「幸せ」に対する人々の考え方も変わってきています。便利な道具や刺激の高い娯楽が増えたため、私たちは日々遭遇する細やかな幸せを軽視しがちになっていると思います。
私はつい最近何でもないようなことにふと幸せを感じました。学校からの帰り道、道端に咲いた一輪の花が目に入りました。人工的に整備されたこの道の中で、ただ一輪、力強く生きている姿に私は感動しました。そしてそれを見つけたことに小さな幸せを感じ、私のストレスに満ちた心が少し和らぎました。
あの時の細やかな幸せは今も胸に焼きついています。たとえ自分のいる場所が困難に満ち溢れたところでも、諦めずただ前を向いて生きるべきだということを教えてくれたこの花に、私は今でも感謝しています。
知识点
【词汇】
ふと 忽然...;偶然...;无意中...
例:学生時代のことを、ふと思い出して懐かしくなった。忽然想起学生时代的事情,真是怀念。
力強い 【たくましい】 强有力;矫健.
例:~腕でひしと抱かれる/被强有力的胳膊抱住
和らぐ【やわらぐ】 变柔和,和缓起来.
例:怒りが~/消气.
満ち溢れる【みちあふれる】溢出,漾出,洋溢
例:幸せが満ち溢れる 幸福溢出
【语法】
がち:
1.N+がち——经常……总是……带有……倾向的。接名词后,表示“容易产生该名词所表示的状态,具备相当多的该名词所表现事物的性质”的意思。如该状态不同于寻常则带有一种负面评价的含义。可以使用的词汇有限。
2.R+がち——容易……,往往会……。接动词后,表示即使是无意识的也容易这样做的意思。用于表述负面评价的动作。多与「どうしても、つい、うっかり、てしまう」等词组一起使用。
【短语】
目に入る 看见。(見える。視野に入る。)
例:新聞の見出しが目に入る。/新闻标题映入眼帘。
第2篇:2007年湖南高考满分作文范文:诗意地生活(8)
我们首先必须生活着,然后才看生活得诗意与否。小姨是杂志社的特约撰稿人,那本杂志的第四版是她的专栏——“生活的诗”。而小姨本人对诗的热爱已经到了*的地步,组织了在当地小有名气的诗社。每逢周末,小姨便像逢了重要的节日,盛装打扮,与社员们聚在一起,谈诗论诗,赏诗做诗。
姑姑是与诗“八竿子也打不着”的农妇,可她在农贸市场却是响当当的人物。她的白菜是最青最嫩的,她的苹果葡萄是最水灵的,她的鸡蛋是出了名的有营养,甚至有人说,从她那买去的鸡,熬了汤能治病!其实我知道,顾客宁愿绕远路也要到姑姑这里来,冲的是她的热情诚实。
我去过小姨家,整个儿就像古典而标准的中式“藏经阁”。进门便见装裱一新的“路漫漫其修远兮,吾将上下而求索”,再往前走几步,李白、杜甫、王勃、李清照,挨个儿跟我打了招呼;打开卧室门,梭罗的那句“在瓦尔登湖上诗意地栖居”分外打眼。面对一屋子的书和姨父小声的数落,小姨吐吐舌头,调皮地说:“囡囡,别理他,小姨我就是爱书。”
我也去过姑姑家,青砖房,昏暗的灯光,姑姑忙里忙外,丝毫不停歇,在她的厨房里,锅碗瓢盆恣意奏着打击乐;在她的院子里,鸡鸭鹅猪快活地唱着合唱曲。见我来了,姑姑挺不好意思:“娃,俺家乱,你别介意,来来,随便坐。”
我的小姨是所谓:“文学青年,”“十指不沾阳春水”,过着“文化人”的生活。
我的姑姑是别人眼中的“大老粗”,干惯了粗重的活计,过着普通农妇的生活。
我一直试图弄明白,这样有着天壤之别的两个人,在谈及自己生活之时,眼中快活满足甚至自豪的光彩为何会如此相似?
小姨觉得她一直诗意地生活着,姑姑是不明白什么叫诗意的,但在旁人——我看来,她也有诗意的生活。
或许因为她们同在乐观而向上地生活,在自己的领域做到,获得了满足。
也许因为生活本身就是一首诗,乐观而充实便是诗意。
我的“雅人”小姨和“俗人”姑姑,同在一片蓝天下诗意地栖居。
诗意离我们很近,我们活着,乐观充实地活着,便可以宣告——
我正诗意地活着。